top of page

第一章「旗守の亡霊」 第三話 「旗守と目覚め」

 

 

その夜――月は厚い雲の向こうに隠れ、屯所の闇はいっそう深くなっていた。

 

宜本京雲(きょうん)は何度も浅い眠りから覚め、やがて、見えない力に導かれるまま布団を抜け出した。

無意識のうちに足は千両松へ向かっている。草を踏むたびに、寒気にも似た緊張が全身を包み込む。


 

月影も届かぬ戦場跡、空気は重く冷たい。

――そこにあった。

紫の隊旗がゆらめく下、土に膝をつき、ひっそりと佇む谷太郎の影。

 

「谷太郎……?」

 

旗の下で彼は、虚ろな眼でぼんやりと遠くを見ていた。

「……帰れなかった……みんな……約束を守れなかった……。でも、ここでずっと待つって、誓ったんだ……」

 

京雲は思わず一歩踏み出す。

(なぜ俺なんだ。なぜ、お前の声が俺にだけ響く?)

 

疲れた声で、谷太郎は旗を差し出す。

「……お前だけは、俺を“いなかったこと”にしなかった。頼む、京雲……この旗と俺の思いを、お前に託したい」

 

その瞬間、谷太郎の手から旗が滑り落ち、まるで霧が流れ込むように眩い残響が京雲の胸に走る。

――血と涙、願いや後悔、仲間たちを思い続けた強靭な心、そのすべてが劇的に流れ込んできた。

 

「谷太郎……!」

 

息もできず、膝から崩れ落ちる京雲。

その体内で、何か新しい力が目覚めるのをはっきりと感じた。旗にまとわりついた無数の“聲”――言葉にならない祈りや、死者の未練、土地の呪い。それが京雲の全身に纏いつき、彼の眼と耳を鋭く研ぎ澄ませていく。

 

谷太郎はかすかに笑みを浮かべる。「お前なら……見届けてくれると信じてる」

 

旗の紫が夜風とともに淡く揺れ、谷太郎の影ごと消えていった。

 

残された京雲は、旗を抱きしめ膝を折る。

その胸は恐怖と痛みで打ち震えつつも、どこか確かに“守るべきもの”を得た自信に満ちていた。

 

かくしてこの夜、宜本京雲のうちには、言葉にできぬ新たな力――

死者と誠の願いを感じ、引き受ける力が、鮮やかに目覚めたのだった。

 

暗闇のなかで、彼はそっと涙をひとしずくこぼした。

“見えないものを、見届ける者”として、新たな夜が静かに始まりを告げていた。

コメント


  • Twitter

©2022 by 雪洲PRO 〜Sessue Pro〜

bottom of page