第二章「斬られた影」第三話 廊下の谺(こだま)
- 江戸川ユキト

- 2025年10月17日
- 読了時間: 2分
静まり返った夜の屯所。
宜本京雲(よしもときょうん)は、灯火一つ手に、廊下の奥へと静かに歩みを進めていた。眠る者たちの寝息から遠く離れたその先――切腹の間。

足音をできるだけ立てずに、一歩、また一歩と床板を踏みしめていく。
闇の深さは息苦しいほどで、僅かな風すら肌の奥に忍び込む。
やがて、切腹の間の前に立った。
膝を抱え、うずくまる黒い影。その衣は血に塗れ、顔はただ暗い靄でぼやけている。
京雲は一瞬、息を呑む。
(俺が恐れたってどうにもならない――今は、声を聞く時だ)
そっと長押に灯りを置き、京雲は静かに膝を折った。
「……ここで、何を思っている?」
影は何も答えようとしない。ただ、かすかな呻き声にも似た息遣いが、孤独な夜気と混じり合って漏れるだけ。
「お前の声は、消えない。たとえ法度で語れずとも、誰かが覚えている。俺が、必ず聞き届ける」
その瞬間、影が微かに動いた。
包帯の端のように、かすかな手が京雲に向かって伸びてくる。湿った空気がひどく重くなり、彼の胸に鈍い痛みが走った。
(名も、最期の言葉も、苦しみも。――全部、俺が――)
京雲の胸に一筋、冷たくも熱い流れが走る。影の呻きと、かつての剣の音、仲間の叫び。
それらが一瞬で京雲の魂の奥へと押し寄せてきた。
じっと耳を澄ませれば、涙と血にまみれたまま、なお消えぬ〝声〟が、静かに彼の心に染み込む。
やがて、黒い影は、わずかに肩を震わせ、ふっと薄明かりに溶けてゆく。
床板にそっと滲むしずくは、汗でも血でもなかった。
ただ、京雲だけが、もう後戻りのできない場所へと、静かに一歩を踏み出したのだった。
その夜、廊下の隅で風がひとつ大きく鳴った。
けれどそれは、誰にも聞こえぬ、名もなき感謝のための谺だった。
※本作品は幕末応援企画で幕末をオマージュした独自のフィクションです。
登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
新撰組のご縁でクラファンディングを応援しています!
🕯️クラウドファンディング最終章、始動。
舞台に、灯れ!




コメント